最近、学生の生徒たちから
学校の勉強がものすごい速度で進んでいる。
という話がよく出てきます。
若干子供たちに疲れが出ているようで
部活の時間を減らしたり工夫も多くされているようです。
学校も現状様々な想定の中でどのぐらいのペース配分が
理想なのかは見極めが難しい事と思います。
学校は様々なことを勉強する場でもありますので
決して理想的なことばかりではありません。
その時々の出来事を通して自らの中に備わっている学びたい
という生来のものに気づいてくれればと思います。

―さてさて、ブログを読んでくださっている方々がたまに
その記事についてレッスンの時に触れてくれることがあります。

難しいとか、誰かを想定しているのですか?とか
記事の〇〇の部分についてもう少し聞きたいとか
〇〇の表現が良かった等々

意外と学生とか若い人も読んでくれていることに驚く時もある。

記事というより雑文に過ぎないが以下に記すように
何がしかの事柄がきっかけになっている事は多いので記事としよう。

記事を書く時にある出来事や会話があった
誰かを想定してしまうきっかけに書き出していく事もあるけど
そういう記事はかなりの率でお蔵入りになる。
誰かに対して一方的な自己主張をしている気がして
何だか嫌な気分になるからだ。
自分がへばりついている。

多くの場合は教室の外も含めた出来事の中で
縫い糸のように一本走っている事柄を見つけて
テーマにしている。
勿論見つけているのは僕なので出来事の中に
縫い糸を走らせているのは僕である。
だから誰かに向かって書いているというよりは
そういった縫い糸を記録しているだけなのかもしれない。

そういえば「経緯」という言葉がある
経(けい)は織物の縦糸の事
緯(い)は横糸の事
機織りだとピンと張られた縦糸に横糸を
通していく。
横糸は色も目も様々で模様が現れてくる。

記事はその時々のものだが2年少々でも
それなりの量にはなっている
まとめて読み返せば
なにがしかの模様を描いているかもしれない。
読んでいくうちに
その中には貫く縦糸が見えるかもしれない。
その時々の豊かな横糸も透けてみえるかもしれない。

布を見るときは布を見るがいい。
布を理解したいときは構造を見ればいい。
分解して素材だけにしてしまうと布は消えてしまう。
素材と構造があれば布をまた生み出すことは出来る。
しかし元の布には非ず。

理解するとか生み出すとか学ぶってこんなことだと思う。
記事と生地のお話でした。