お盆休みで通常レッスンはないが
なんだかんだ毎日レッスンを行っている。
1日単位で生きているわけではないので
数時間でも休みは休み。それで何の問題もない。
来られている方々も長い年月の中では
ここが楽しい場所であったり
そうでない時もあったりと様々だと思う。
やわらかなグラデーションの中で色々なことが日々起こっている場所だから
特別に他所に出かけて刺激を受けなくてはならない気がしない。
夢の国でもファンタジーでもない日常の世界にあるこの教室が
過ごすにふさわしい場所だ。
―さてさて
私事ですがレッスンをしながら自分の事も
育てていかなくてはいけない。
大概の事は根拠もなくやれば出来るのではないかと
思っている性分なのでとりあえずやってみる。
そして大概はやってみて中々上手くいかない事に直面する。
物事は入り口は広いが奥は狭く大概途中で引っかかるようになっている。
若い時は何でもやりたがりだったのであれこれ首を突っ込む。
首を突っ込んでは途中で引っかかり何かと摩擦を起こす。
進んだり引き返したり、そういう事を繰り返していくうちに
自分が向き合いやすいものや没頭できるものが見つかってくる。
僕の場合は音楽だったり、楽器を弾くことだったり
身体や動きについて考察することのようで
それらはどれだけ引っかかってもずっとやっていられる。
何にせよ上手く出来ない事は多い。
そういう時はじっと手を見る。
手には27の骨がある。
そして多数の筋肉、腱、膜、靭帯、皮膚がある
それらによって起こせる動きはどれだけあるかはわからない。
何度も繰り返しているうちに
ふと今まで気が付かなかったやり方が見つかる。
そこからまた新たな観察が始まる。
たまにメソッドや教本を作ってくれと言われるが
それは別に何でもいいと思っている。
各自、巷にある自分の気に入ったエクササイズやテクニック、
楽曲の中で性に合うものを見つけて何度も何度も継続し繰り返してほしい。
それこそ音楽や演奏でなくてもいい。
ある種の限界や閉塞感、諦めを感じるまで繰り返してほしい。
そういった事を感じる中でまだ試していない多くの方法と出会って
一瞬一瞬取り組んで戴ければと思う。
何度も繰り返すことが出来る権利は世間では得難い事かもしれないが
その権利は生来もっているはずのものだ。
時にそういった生来持っている自由を掲げるものは
それを嫌うものに踏みにじられるかもしれない。
しかし、何があろうともそれら本質的なものが持つ力は困難の中で
輝くことはあれども損なわれることはない。
しかし同時に恒常性を求めるのも我々の本質であり、
それを突破し新たな日常を確立するまでには
摩擦や忍耐の時間が必要になる事も世の理であることを承知しなくてはならない。そういった中で物事は成熟していく。
話は戻すが何度もわかるまで繰り返し悩み試すことが出来る権利を
奪われもしないのに自ら捨てては勿体ない。
上手くいかなかった演奏も弾き終わった後には消えている。
どれだけ弾いても身体には残るが部屋に溜まっていかないのもありがたい。
容易な道だと思う。
そういった事が可能性の追求であり自己発見であり
あらゆることへの希望であると思う。
それが日常の中にある教室での普通であり
ちょっと特別な事なのかもしれない。
庭の周りにはすでに自由の花が咲いている。