雨の金曜日でした。
雨の日のように過ごしました。

金曜日は比較的レッスンが少ないので
まとまった時間が使えます。

少し深く集中できるので本を読んだり、
録音したり、絵を描いたりして
過ごすことも多い。

昔は天気関係なくじっとしていなくてあちこちへと
動く性分だった気がする。
根気がなかっただけなのかもしれない。
(気持ちに根が生えていない、
根に気持ちが行っていない、言い得て妙)

なんだかテンションが高くないといけない気もしていたし
反動で一日電気もつけずに締め切った部屋で
只ぼーっと過ごす日もあってバランスを取っていた気もする。
最近はそういう波は無く過ごしている。
今でも予定や行事がある時だけ少し(倒れる3歩前まで)頑張る事はある。

天気のいい日は活力に満ちて
雨の日は低いテンションでということも無い。

そうそう、今の人類のおおよその気質は
600万年ほど続いた狩猟採取時代に出来ているらしい。

きっと晴れている日は食料の調達や
新たな狩場の発見などのために動かなくては
ならなかったのだろう。
動くという事は襲われる危険もある。
だから少し緊張していなければならない。
恐れとか恐怖は一つの信号を受けた時の
判断であって個人差があり、それを楽しみと受け取る
事もあるので何とも言えないが、
ある程度緊張し興奮している状態でいる事は
必要なであったのだと思う。

逆に雨の場合はそういった危険のリスクも
少し下がるので緊張を緩めることが出来るのかな?
気を張ってテンションを上げる必要がなくて
少し籠っているのがヒトとしてのニュートラル
なのかもしれない。
なんて空想してみる。根拠も学説も調べて無い話。

年のせいなのか柔らかい力を使える様に
なってきたせいなのかは分からないが
緊張をいたずらに求めなくなってきた。

何かを一生懸命にやったり、
奮起したり発揮したりって狩りに興奮していた
時代の名残のような気もしている。
それを善とするのはそのころの価値観かもしれない。

そういうのに違和感を覚えて
そういうところから一歩ずつ遠ざかっている
ヒトたちは少なからずいるのだろうなと感じる。

それは逃避ではなくて
ニュートラルなままでいてはいけないのか?
という問いに聞こえる。
問いには答えがある。
大概は可能だ、不可能の証明は難しい。
問いを持った時点で可能だということを信じているのだと
思う。
可能なことを証明するのは問いを持った人間にしかできない。
少しでも美しい答えを出したい。
問いを持ったことを忘れるほどに。