シン・エヴァンゲリオン劇場版をみてきました。
エヴァンゲリオンはテレビ版から全て見ているとは思いますが
特別に好きだとか思い入れのある作品ではありません。
しかし、今回の作品には作家(の魂というべきもの)が
ズドーンと存在していてとても興味深かったです。
見終わった時ヘッセの作品を読んだ時のようだと思いました。
若いころからヘルマン・ヘッセが好きでよく読んでいました。
彼の作品はその時々の自己がかなり投影されていて、
その時抱えていただろう問題と向き合いその時点での
認識の最高点まで昇華されています。
作品を重ねるごとに自己認識が更新されていき
著作を順に読んでいくとその過程と遍歴をさらけ出してくれています。
そういう作家性に触れるとそこにある主張の
好悪とは関係なく向き合わなくてはという
気になってしまいます。
特に意識していなくても読後ずっとそれが頭に住み着いて
事あるごとに何度も反芻している自分がいることに気づかされます。
そして、何度も読み重ねていくと、ある時「読めた!!」
と思わせてくれる瞬間が訪れます。
そこまで向き合わせてくれる存在というのは
とてもありがたい事です。
今回のエヴァンゲリオンもそんな作品です。
セリフの字面やり取りからではなく、作品そのものから
立ち上がってくる作家の魂。
アニメーションという物凄い人手と手数の積み重ねの
果てに作られる作品でそのような事を味わえるとは思ってもみませんでした。
これはスタイル、作風、作家性、嗜好、らしさと言われるものとは
違います。
映画が終わった後、会場にはなんとも言えない空気がありました。
好きな映画「この世界の片隅に」を見た後もそのような空気がありました。
コンサートなどでもの凄い音楽を体験したあとにもその空気はありました。
その経験をまだ受け止め切れてなくて
様々なピースを反芻して消化して結合してを必要としている
人たちが生み出す空気。とても大切な空気。
この空気を感じ取れない人もいるし
落ち着かなくなって、すぐにこの空気を消そうと何かをやらかし始める
人がいるのはまぁしょうがない。
作品に性根をいれる、受肉させる、血を通わせる
様々な言い方が出来るかもしれませんが
そういった事は作品にはとても大切だと思います。
しかし中々そうはなりません。
考える、思いを込める、浸りきる、酔っぱらう、我を出す、
自己投影をすることとは全然違います。
構成・構造が良くできているとも違います。
割り切れるものも割り切れないものもすべて
ズドーンと宿らせられる人、それがアートだと思います。
そうそう、映像の構図もとても素晴らしかったです。
一瞬一瞬のシーンの構図が完成されていて
一コマずつ止めて見ていたいほどでした。
作家の存在が宿るほどにまで
一コマの構成から全体の構成迄見事に構築された
稀有な作品だと思います。
この作品に何かを宿らせるために
様々な手間と段取りがなされているのは
間違いありません。
物事は大切に扱っているからこそ何かに到達できます。
畏怖する勇敢な者が近づけて、
馴れ馴れしい、ずさんな者は遠ざけられます。
作家が(私が)何を畏怖しているのか?
それと向き合うためにどれだけの事を支払っているのか?
それがどれだけの質量と熱量を蓄えているか?
(瞬間最的な量もあれば持続的な熱量もあります。)
時にはそういった事を考察してみてはいかがでしょうか?
そういったものに対して真摯に向き合って作品(行動)を積み重ねてきた者には
きっと向き合ってくれる誰かがいるはずだと信じていていいと思います。
何かに踏み出し進んでいくためにはとても大切な事ですね。