月末に久々の休みを取りましたので
伏見ミリオン座に映画を見てきました。
ミリオン座は映画愛を感じる素晴らしい劇場です。
ただ映画を見るだけの空間でなくミリオン座そのものが
楽しい空間となっています。
行くと心と身体が喜ぶ映画館。
見てきたのは「CODA あいのうた」
本人のみが健聴者という家庭で育った少女が
歌を夢見て、自分の人生へと歩みだしていく物語。
この程度の前知識でしたので「あーはいはい」と言いたくなるような
音楽の高揚感を上手く使った感動的な物語なんだろうと思ってました。
普段なら行かなそうですがいくつかあった候補の中から
何故かこれを選んで見に行きました。
いや、見て驚きました。
素晴らしすぎて固まりました。
凄く良くできた脚本ー無駄のないセリフ、設定を生かし切った表現
役者の演技等々から生み出される体験。
見終わって2日経ちますがまだ頭の中で様々なシーンが反芻されています。
いい作品を見た後は必ずそうなります。
一つ一つのシーンがどうなっていたのかを頭が整理しようと
動き続けています。
感動って泣けるとかではなくて、何か得体のしれないものに触れた時に
一瞬フリーズしてしまって後にそれを理解しようと全身で咀嚼していく
行為なのかと思います。
音楽でも同じで、一つの素晴らしい音が聴こえた時に
訳が分からなくなって、ただじっとしてしまいます。
それが聴くという事で大切な事です。
それを理解し自ら奏でられるようになるには
しっかりと咀嚼する過程が必要があります。
思わずじっとしてしまうような体験が持てる方は
幸いだと思います。
映画つながりでもう一つ、
アカデミー賞で司会者に平手打ちをするという行為がありました。
これについて様々な意見が飛び交っています。
ネット上で言われていることはアメリカでは侮辱と受け取り
手を出した役者さんの方が非難されているとの事。
アメリカが面白いと思うのはこういう点です。
黒人運動のBLMが少々乱暴でも認められていたりカリフォルニアでは
10万円以下の万引きは重罪に問わない(お目こぼし、見ないふりをする)
事が施行されています。
こういった事から持たざる者の多少の乱暴は目をつむるが持つものである
成功した役者には厳しい倫理的な行動を要求するといった姿勢を感じます。
アカデミー賞の出来事は公の場所であることも大きく作用しますから
司会者と役者という個人個人の枠組みで考えることは難しいと思います。
司会のコメディアンは本人の成功とは関係なく
職業の特性として持たざる者の延長に身を置いた振る舞い(仕事)と判断されるのでしょう。
役者さんは個人の純粋さや気さくさ故に自らが持つものであると見られている事に対する
意識が甘かったのかもしれません。
さらに公の場所、映画スター、コメディアンは社会的現実に属する事柄です。
ある意味すべてフィクションなのです。
社会とはそのフィクションの濃度の濃淡の中に構築され現実と認識されたものです。
映画の授賞式はそのフィクション濃度が濃い世界でしたので
発言を個人的な侮辱と受け取り平手打ちで報復する行為はそぐわないものであります。
話は戻りますがマイケルサンデルの著書「実力も運の内 能力主義は正義か」で論じられているように
格差というものが個人の努力や能力だけで生じる問題ではなく
社会が引き起こしている側面があり、「たまたま」が
軽く扱えない要素になっている事に対してどう進んでいくか
考えなくてはいけない。
先の平手打ちに対する社会のリアクションやBLM、万引きへの対応は
そういった事と同じ線で結ばれていて、
論の上だけでなく実際に社会がそういう方向へ向かっている事を
表しているように見えます。
民主主義であったり自由であったり個人の権利であったり
そういった思想に基づいて運営されている事を理解する感覚を持つことは
映画を見て表現からテーマへと至る理解
テーマから表現を構築していく作業と同様に大切だと思います。
「CODA」では出演者それぞれが持つ環境が一元的な幸不幸ではなく
受け入れ、試行錯誤し、諦め隷属することでなくそれぞれにしか出せない回答を見つけ出して
自立して社会の中に居場所を見つけていく。
それぞれにとっての成功の物語として一つ一つのシーンが
紡がれていました。
今、世の中はこれまでもあったように大きく変わっていきます。
ヒトはこれまでも様々な社会的現実を生み出してきましたが
これから紡がれていく物語も悪くないものだと思います。
私もそれぞれがそれぞれにしか出せない回答を出して欲しいと思っています。
その中で結ばれる縁に美しさを感じます。