レッスンが始まって1週間、
あけましておめでとうございますの
挨拶も一通りの方とすがすがしく交わすことができました。

来られている方々からいただいた年賀状の多くに
ギターを持った写真や音楽やギターにまつわる
イラスト、文章が載っていました。
皆様、生活の中でギターや音楽を奏でる事を
大切に楽しんでしていらっしゃるようです。
そんな方々に大切に扱っていただける教室は幸せだなと
つくづく思います。

さてさて、音を出すとき、出そうと思ったときに
身体がそうしようと準備をします。
その起こる場所が各々の習慣なのですが変えることもできるのです。
起点が変わると経路も違った選択が出来るようになります。
その起点~経路がほんの少し変わると最終的な出音は大きく変わります。
そういう音を奏でることによって目の前にいる方の
音楽を受け取る進度や深度、はたまた心の震度も
変わってくると日々実感をしています。

僕も若い時はどうやって聞いてもうらおうかとか
どうやったら理解してもらえるだろうかと様々に
アプローチを工夫して試していました。
また、ちゃんと成長してもらえるように
生徒を管理・マネージメントしなければという
昨今のスポーツジム的な考えも多少持っていました。
よくよく考えを詰めていけば物は管理する必要があったりしますが
人は管理されるべきものではないと至ります。

今はその自由意志が向き合いたくなるような音を
日々の発見の中で磨き奏でることをその旨としています。
そうすると僕自身が向き合うのはやはり自分自身だということになります。
相手をあれこれいじくるよりも僕の中から起こる小さな小さなさざ波が大切です。

思い起こせば祖母は所作のきれいな方でした。
日常の動作、箒ではくときの動きや移動するときの身体の運びは
他の方とは違っていました。
もうずいぶん前に他界されていますがその様は記憶に残っています。
そういったものを見させていただけたことが今につながっていると思います。

話を戻しまして、いただいた年賀状を眺めると
両親からいただいた私の名前の下に先生と書いてくださっていて
文面には感謝や前向きな言葉がつづられています。
これらの名前、敬称、添えられた言葉などの
要素はすべて誰かからの戴き物です。

僕自身、生まれて名前もなく何物でもないころから
色々と変化をしてきて、これからも
少しづつ変化をしていきます。
常に何物でもない故に起こるその変化の連続の中で
このような現われを戴いてばかりでひたすらにありがたく感謝いたします。