教室から帰る道中に塾がある。
今日も車でそこを通りかかる。
その塾から小学生の生徒が出てくる。
それを先生が見送っている。
小走りに横断歩道に向かっていくその子
横断歩道に僕の車が差し掛かって止まる。
先生は首を伸ばしながら成り行きを見守っている。
安全にその子が渡り切っったのを見届けて先生は教室に入っていく。
見守られていることを知らずに子供は
帰路を急いで走っていく。
そんな人知れない先生の丁寧さに嬉しくなる。
そんな帰路を持てた事に感謝する。

日々の中で分かりやすく楽しめる良い光景もあれば
楽しむのには様々に考えを巡らす手間が必要な出来事や状況もある。

様々な出来事や物事を
どう眺めたら面白がれるか
どのように見たらそこかにある
肯定的な意図を見出すことができるか
というのを常々楽しんでいる。

しかし、どうしても譲れない点を意識させてくれたり
何故か不愉快な感情を湧き起こして
くれるような存在や物事もある。

そういう引っかかりはありがたい。
そうやって引っかからせてくれる
出来事や存在はありがたい。

そういう事のおかげで
自分の性質を知ったり
吟味したり
方向性を定めていくことが出来る。

法の範囲内であれば正しいとか間違いという判断には
さほど興味がない。

一種のディベートのネタのようなものだ。
ただ不満をあげつらったり論争にしたり
思考のゲームにしていくだけではなく
それを実践したり形にしていく事によって
そういう不愉快さや譲れなさを持った自分を
よりしっかり味わっていけるのだと思う。
公の場所でなければ安易にバランスの取れた便利な言葉で
自ら不愉快さを取り繕う必要はない。
そういった努力や行為は勿体ないと思う。

日々発見する前向きな努力や
他者への尊重から生じた景色は
自分を磨き高め律する原動力になる。
同じように不愉快さやひっかかりも
同様の作用を持たせることが出来る。

念のために書くが
ある事柄を否定していてももう一つ大きな枠組みでは
その存在や状況を受容することは出来る。
否定も肯定もどの枠組みの中での話なのかを見失わない事が大切だ。
そしてそれより一つ大きな枠を認識しそこでは受容出来ていることが大切だ。
それを見失わないようにしたうえで否定なり肯定をしていけばいい。
そうでないと盲目的な行為になる可能性が高くなる。

話は戻すが否定という引っかかりから排除や排斥に進むのではなく
何を生み出していくかが大切だ。
自分にとって当たり前に持てる感覚や行為が
誰かにとっては当たり前のことではない事を知ることは大切だ。
そんな自分の感覚を知るためには
否定的な感じ認識していくことは必要なんだ。
そんなことをを何度も繰り返し吟味して行く中で
自分の当たり前の価値観の
希少性や普遍性を見出していくことが出来る。
そういう引っかかりのある自分を大切にしないと
そういったものは見出しにくくなってしまう。
そして、そうやって見いだせたものから何かを生じさせれば
必然的にオリジナリティーのあるものになっていく。

否定から排他、排除的な行為に進むのは単純すぎる。
そういった行為の選択は往々にして切り捨てたものから仕返しを受ける。
相反するものが両立しているのが術である。
普遍的な事は何故か希少性の中に現れる。
両立するの為の術は単純ではなくシンプルな事からできている。
それを見出すのは誰でも出来得るし既に備えていると思っている。
それを発露させるのに先ほどから言っている事が大切なのだと思う。

善悪も快や不快もどちらも同じお皿に盛られた
料理に過ぎないので全部味わって栄養にしていけばいい。
料理はそれが盛られているお皿を愛でる事が実は本質かもしれない。
ちゃんと食べれば最後にお皿が残る。

しつこく言うが何かに引っかかれることは本当に幸せな事なんだ
そんな自分や他者を大切にして行こう。

引っかかりから問いが生まれる。
問い続けられることが独自性を持った存在そのものだし
財産であり幸せなんだ。